「ありがとう。よく弾けているね。ちょっと聞いていいかい?君はいつもどんなことを考えて練習をしているのかな」
「え、どんなって…練習はきらいじゃないけど、遊びにいきたいときは、めんどうだなって思う」
「そうだね。遊び盛りだし、遊ぶことも子どもにとって大事なことだよ。楽しいことを後回しにして練習するのは、辛いときもあるだろうね」
「…ボクだけいつも公園に遅れていくんだ」
「きちんと練習してから行くなんて、偉いじゃないか。いいかい、君はとても素敵なものを毎日受け取っているんだよ」
「すてきなもの?」
「そうだ。遊ぶ時間を削ってまで努力している。辛いかもしれない。だが、そんな経験こそ君を強くしているんだよ」
「…?」
「自分で決めたことは、何があってもやり通す。どんな状況でもやり遂げる。その地道で苦しくて、しかも誰も見ていないことにこそ、自分を成長させる種が宿っているんだよ。他にも毎日やっていることがあるかい?」
「うーん…国語の教科書の音読は、ずっとやってるかな」
「素晴らしいことだよ。成功とか成長ってね、毎日繰り返される、小さな頑張りの積み重ねの上にできあがるものなんだよ。たとえば、すごく重たいものを、1ミリでいいから毎日何とか動かしてみる。するとどうだろう。10日で10ミリ、100日で100ミリだ」
「100ミリって…たったの10センチ?」
「そう思うだろう。でも、動かしてこなかった人にとってはゼロだよ。たかが10センチでも、大きな差だ。そしてさらにすごいことがある。ずっと努力しているとね、ある日突然、一度に10ミリ動かせるようになったりするんだ。それは、毎日苦労して1ミリを動かし続けた人しか得られないものなんだよ」
「へぇ…」
「たいへんかもしれないが、とにかく続けてごらん。気づけばとんでもないところに辿り着いているよ。あとね、楽しく練習するヒントをあげようか」
「うん」
「誰かに喜んでもらえることを考えて練習すること」
「誰かに…?」
「そうだ。手品の練習と同じで、誰かを喜ばせるための時間は、練習が練習でなくなるんだよ。たとえば君なら誰のために弾こうか?」
「えっと…ママかパパ、かな」
「いいね。君の演奏で、ママやパパがにっこり笑ってくれているところを想像してごらんよ。嬉しくならないかい?」
「うれしい」
「そうやって、誰かのためにつむぐ音楽は素敵だと思うよ。それからね、難しい話になるけど、これも覚えていてほしい。練習ってね、偉大な作曲家と会話することなんだよ」
「作曲家って?曲を作る人?」
「そうだ。さっき弾いてくれたのは、シューマンという作曲家の作品だ。彼はこんなことを言っている。『いつも名人にきかせるような気持でひくように』と。それがまさにそのことだよ。作曲家が音楽を通して語りかけてくるものを感じる。考えてみるだけでもいい。何かを受け取ろうとすることが大切なんだ」
「むずかしそう…」
「そう、とても難しいことだよ。でもね、宝物と一緒で、見つけようとした人だけが受け取れるものってあるんだよ。それが練習することの本当の意味だ。それから、さっきうまくいかない箇所があったね?」
「あぁ、えっと、ここ。どうしても弾けなくてイライラする」
「はは、そうか。たとえばだよ、ある曲でうまくいかないところに出会ったとする。たいていの人は、同じようにイライラするだろう。どうして自分は弾けないんだ、下手でいやになるってね。そしてイヤイヤ練習する。だが、うまくなる人の考え方ってね、ちょっと違うんだよ」
「…どう違うの?」
「やった!って喜ぶんだよ。おかしいかい?でも、本当にそうなんだ。弾けないところに出会ったら喜ぶんだ。なぜかって、うまくなるチャンスがきたんだと思えるからだ。『これを乗り越えれば、またちょっとうまくなれる!』ってね。できないってことは、できる経験に変えるチャンスがきたってことなんだよ」
「なんか、すごい…」
「知っておいて欲しいことが、もう一つある。それはね、君が弾いているのと同じ曲を、世界のどこかで練習している人がいるってことだ。今、この瞬間も誰かが弾いているかもしれないね。そう思うとすごく素敵じゃないか。一人で練習していて孤独だなんて思わないし、励まされるし、勇気づけられる。同じ曲を、誰かと共有しているなんて素晴らしいと思うよ。それが音楽の持つ力じゃないかな」
「だれかが同じのを弾いてるって、すごいね!」
「今、ここで君と私とで同じ音楽に向き合っている。それも奇跡的なことだと思うよ。なにより、ピアノが大好きな私にとって、すごく嬉しいしね。シューマン先生に感謝だ」
「これからも、練習がんばってみる」
「そうか、よし。じゃ、もう一度弾いてみようか」
(この連載は、フィクションです)