「ありがとう。だいぶ指が動くようになってきたね」
「あ、はい。先生の練習法でやってみました」
「そうか。がんばっているようだね。さて、いつも言っていることだが、指がよく動くことと同じくらい大切なことがある。何だろう?」
「ひょ、表現力とかですか」
「そうだ。よく話を聴いているんだね。もっと言うと、すべてはハートなんだよ」
「ハート…ですか」
「演奏には、テクニックはもちろん必要だ。だが、忘れないで欲しいのは、テクニックは心を伝えるための道具にすぎないということだ」
「…」
「テクニックだけすごくてもね、心が空っぽなら何も伝わらないんだよ。やっぱり人には分かってしまうんだね。心を磨かないでテクニックを磨くのは、ただ綺麗に書くだけのために字を練習しているのと同じだよ。いくら字が綺麗でも、伝わらなければ、ただそれだけだ」
「はい…」
「たとえば一つの旋律があるだろう?その旋律をこの上なく上質に歌い上げるピアニストがいる。もちろん、そこにはとてつもないテクニックがあるんだが、それプラス、ハートがあるから人々は心打たれるんだよ」
「ピアノで旋律を歌うのは…すごい難しいです」
「そうだね。では、ちょっと考えてみようか。旋律って、いったい何だろう?」
「旋律は…メロディだから、歌とか曲の大事なパートとか…」
「そうだね。もちろんそういうことなんだが、私が思うに旋律とは『気持ち』なんだよ」
「気持ち…」
「君も毎日生きていて、いろんな気持ちになるだろう?嬉しかったり、悲しかったり」
「うちに猫がいて、抱きながら撫でてると、すごい、なんていうか、落ち着きます。あと、何かにうまくいかないと、結構イライラします」
「そう、たとえばそういう気持ちだ。つまり感情だね。たとえば、好きな人を思うと、胸を締め付けられるような気持ちになるだろう。そういう『目に見えない言葉』を旋律と考えてみるとどうだろう?」
「自然と…心がこもる?かもしれません」
「もっと言うとね、音楽家は言葉にできないことを音で表現するんだよ。ダンサーは踊りで表現し、書家は文字で表現する。その純粋な営みに、言葉を超えた『何か』を感じるから人は心打たれる」
「そうか…はい」
「一流の歌手や役者も同じだよ。フレーズ一つ、セリフ一つに自分の経験や知識、すべてを注ぐから感情が入る。観客は自分の過去や経験と重ね合わせて感情を揺さぶられる。旋律をどう歌うかもそうだが、そこに『伝えたい何か』があるかどうかのほうを重視しているはずだよ」
「先生がいつも言っている、探すことをやめなかった人だけが見つけられるって、そういうこと…」
「よく話を聴いていてくれて嬉しいよ。そうだ。探すってことは求めるから探すんだよね。手にしたいから探す。その探求心、好奇心ってピアノにもすごく大切なんだよ」
「あぁ、いろんなことに興味を持つ…」
「いい気づきだね。ピアノを弾くためには、知的であることが重要だ。その人の知識や経験がにじみ出たものが、その人だけの「音」になり「音楽」になる。人それぞれ音が違うのはそういうことだよ」
「知的っていうのは、頭がいいってこと…ですか」
「それもそうだが、私は好奇心が旺盛ってことだと思うよ。どんなことでも知りたい、読んでみたい、行ってみたい、会ってみたい。つまり行動力だね。その行動で得た教養が、知的な要素になるんだ。音楽も同じだよ。ピアノに向かう時間と同じくらい、いろんなことに頭を突っ込んでみることは大切だと思うよ」
「あ…音楽の先生も言ってました。旅をしたり、美術館に行ったり、本をたくさん読もうって」
「そうだね。価値のあることは、自分だけの演奏を目指すことだ。いい演奏をする人はたくさんいる。でも、自分らしさで勝負している人はそれほど多くない。自分らしさで勝負している人は『自分に価値がある』というハードルを乗り越えて、自分を認めた人なんだよ」
「自分を認める…いつもの先生の言葉ですね」
「大事なことだからね。ただ、気を付けなければいけないことがある。自分の演奏で人を感動させようとするのは、ただのエゴだ。それも必ず人に伝わる。逆なんだよ。エゴのない、究極の純粋性に出会ったときに、人は驚き、憧れ、魂が揺さぶられて感動する」
「…はい」
「いつも自分の心の声を聴いてごらん。その言葉にならない声を、音にしてみようとしてごらん。きっと素敵に歌えるし、自分らしい表現になっていくと思うよ。それが本当の練習じゃないかな」
「…やって、みます!」
「よし。じゃ、もう一度、頭のフレーズから考えてみようか」
(この連載は、フィクションです)