「聴かせてくれて、ありがとう。君は今日初めてだったね。ちょっと聞いていいかな。君は普段はどんな練習をしているのかな?」
「えっ…あの、弾けないところを何度もさらったり、リズムを変えて練習したり…です」
「なるほど、弾けないところをさらうのは必要なことだね。でもね、そこに必要なのは、頭なんだ」
「あたま…」
「うまく弾けないのは、必ず理由があるんだね。その理由を考えるんだよ。この指がここにあるからうまく次にいけないんだろうとか、速いパッセージの最後で耳がおろそかになっているからだろうか、とかね」
「はい…」
「もっと言うとね、多くの問題は、『音楽が要求しているものとズレているとき』に生まれるんだ」
「…?」
「柔らかさが求められているのに、力でなんとかしようとしてもうまくいかない。必死にパッセージ練習しても、うまくいかないのは想像できるだろう?大きな問題は、求められているものに気づかないことだ。でもね、ヒントは必ずあるんだよ。だから、弾けないところに出会ったら、頭を使う。『ここは何が求められているのだろうか?』と。時間はかかるかもしれないが、実はそれが近道だったりするんだよ」
「がむしゃらにさらってもダメだと…」
「本当の練習は、身体よりも頭が疲れる」
「だから、あたま…か」
「練習ってね、偉大な作曲家との対話なんだよ。音符を通して語りかけてくる作曲家の声に耳を傾ける。そこにあるアイデアに気づくことだよ。ときには、疑うことも大事だ。このスラー、本当に作曲家が書いたのか…?違う版を見てみると、やっぱりスラーの位置が違う。歌い方が変わってくる。弾きやすさがまったく違う。どうだろう、がむしゃらなリズム練習に解決策はあったかな?」
「…いえ」
「大切なのは、目的とアプローチなんだ。技術を磨くのは、指が速く動くことを見せびらかすためかい? 違うよね。その『音楽』が求めているものに辿り着くためだ」
「…」
「セリフが全部棒読みの演劇に感動する人はいないだろう。言葉に心がこもっているから、人は自分の人生と重ね合わせて感情移入する。ピアノも同じなんだね。演奏とは、作曲家の心を感じることであり、それを自分の心で伝えることだ。そこに少しでも近づけようとするのが、『本当の練習』なんだよ」
「…はい」
「楽譜には宝物がたくさん散りばめられている。大切なのは、宝物の見つけ方だね。名演奏家が、「人として豊かな経験を積み、心を磨くことが重要だ」と言う理由は、そこにあるんだよ。たくさんの景色、味わった感情、人を好きになること、苦しみを乗り越えること、愛情や感謝。それが楽譜の中にある『宝物』なんだよ」
「………」
「道端に咲く小さな花に、暮れなずむ夕日に、今日鍵盤に触れられていることに、心動く人であってほしい。感動ばかりの人生を歩んでほしい。そうすればもっと、心から音楽が好きになると思うよ」
「感動…ばかりの人生…、なんか、カッコいい…ですね」
「…君の中で、何かが少し動き始めたかな」
「わかんないですけど……あの、もう一回、弾いてみていいですか?」
「もちろん」
(この連載は、フィクションです)